singular points…特異点における日常の風景

 

Tuesday, January 15, 2013

食あれば楽あり「焼きとん」

「5串セット」を熱燗と 「焼き鳥」という看板や暖簾(のれん)を掲げている居酒屋でも、串焼きは豚であることが少なくない。我が輩は鶏肉よりはむしろ豚肉の方を好むので、そういう店ではしめしめと思って、美味しく賞味している。最近は「焼きとん」や「串豚」などと、最初から豚肉使用を明記している店も多い。 (以下、略)
小泉武夫:発酵学者・文筆家 日本経済新聞2013年1月15日(火)朝刊より

 

Saturday, November 19, 2011

ブータン国王国会演説(全文文字起こし)

天皇皇后両陛下、日本国民と皆さまに深い敬意を表しますとともにこのたび日本国国会で演説する機会を賜りましたことを謹んでお受けします。衆議院議長閣下、参議院議長閣下、内閣総理大臣閣下、国会議員の皆様、ご列席の皆様。世界史においてかくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国国会のなかで、私は偉大なる叡智、経験および功績を持つ皆様の前に、ひとりの若者として立っております。皆様のお役に立てるようなことを私の口から多くを申しあげられるとは思いません。それどころか、この歴史的瞬間から多くを得ようとしているのは私のほうです。このことに対し、感謝いたします。 妻ヅェチェンと私は、結婚のわずか1ヶ月後に日本にお招きいただき、ご厚情を賜りましたことに心から感謝申しあげます。ありがとうございます。これは両国間の長年の友情を支える皆さまの、寛大な精神の表れであり、特別のおもてなしであると認識しております。 ご列席の皆様、演説を進める前に先代の国王ジグミ・シンゲ・ワンチュク陛下およびブータン政府およびブータン国民からの皆様への祈りと祝福の言葉をお伝えしなければなりません。ブータン国民は常に日本に強い愛着の心を持ち、何十年ものあいだ偉大な日本の成功を心情的に分かちあってまいりました。3月の壊滅的な地震と津波のあと、ブータンの至るところで大勢のブータン人が寺院や僧院を訪れ、日本国民になぐさめと支えを与えようと、供養のための灯明を捧げつつ、ささやかながらも心のこもった勤めを行うのを目にし、私は深く心を動かされました。 私自身は押し寄せる津波のニュースをなすすべもなく見つめていたことをおぼえております。そのときからずっと、私は愛する人々を失くした家族の痛みと苦しみ、生活基盤を失った人々、人生が完全に変わってしまった若者たち、そして大災害から復興しなければならない日本国民に対する私の深い同情を、直接お伝えできる日を待ち望んでまいりました。いかなる国の国民も決してこのような苦難を経験すべきではありません。しかし仮にこのような不幸からより強く、より大きく立ち上がれる国があるとすれば、それは日本と日本国民であります。私はそう確信しています。 皆様が生活を再建し復興に向け歩まれるなかで、我々ブータン人は皆様とともにあります。我々の物質的支援はつましいものですが、我々の友情、連帯、思いやりは心からの真実味のあるものです。ご列席の皆様、我々ブータンに暮らす者は常に日本国民を親愛なる兄弟・姉妹であると考えてまいりました。両国民を結びつけるものは家族、誠実さ。そして名誉を守り個人の希望よりも地域社会や国家の望みを優先し、また自己よりも公益を高く位置づける強い気持ちなどであります。2011年は両国の国交樹立25周年にあたる特別な年であります。しかしブータン国民は常に、公式な関係を超えた特別な愛着を日本に対し抱いてまいりました。私は若き父とその世代の者が何十年も前から、日本がアジアを近代化に導くのを誇らしく見ていたのを知っています。すなわち日本は当時開発途上地域であったアジアに自信と進むべき道の自覚をもたらし、以降日本のあとについて世界経済の最先端に躍り出た数々の国々に希望を与えてきました。日本は過去にも、そして現代もリーダーであり続けます。 このグローバル化した世界において、日本は技術と確信の力、勤勉さと責任、強固な伝統的価値における模範であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。世界は常に日本のことを大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることへ願望を持って何事にも取り組む国民。知行合一、兄弟愛や友人との揺るぎない強さと気丈さを併せ持つ国民であると認識してまいりました。これは神話ではなく現実であると謹んで申しあげたいと思います。それは近年の不幸な経済不況や、3月の自然災害への皆様の対応にも示されています。 皆様、日本および日本国民は素晴らしい資質を示されました。他の国であれば国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に、日本国民の皆様は最悪の状況下でさえ静かな尊厳、自信、規律、心の強さを持って対処されました。文化、伝統および価値にしっかりと根付いたこのような卓越した資質の組み合わせは、我々の現代の世界で見出すことはほぼ不可能です。すべての国がそうありたいと切望しますが、これは日本人特有の特性であり、不可分の要素です。このような価値観や資質が、昨日生まれたものではなく、何世紀もの歴史から生まれてきたものなのです。それは数年数十年で失われることはありません。
そうした力を備えた日本には、非常に素晴らしい未来が待っていることでしょう。この力を通じて日本はあらゆる逆境から繰り返し立ち直り、世界で最も成功した国のひとつとして地位を築いてきました。さらに注目に値すべきは、日本がためらうことなく世界中の人々と自国の成功を常に分かち合ってきたということです。ご列席の皆様。私はすべてのブータン人に代わり、心からいまお話をしています。私は専門家でも学者でもなく日本に深い親愛の情を抱くごく普通の人間に過ぎません。その私が申しあげたいのは、世界は日本から大きな恩恵を受けるであろうということです。卓越性や技術革新がなんたるかを体現する日本。偉大な決断と業績を成し遂げつつも、静かな尊厳と謙虚さとを兼ね備えた日本国民。他の国々の模範となるこの国から、世界は大きな恩恵を受けるでしょう。日本がアジアと世界を導き、また世界情勢における日本の存在が、日本国民の偉大な業績と歴史を反映するにつけ、ブータンは皆様を応援し支持してまいります。ブータンは国連安全保障理事会の議席拡大の必要性だけでなく、日本がそのなかで主導的な役割を果たさなければならないと確認しております。
日本はブータンの全面的な約束と支持を得ております。 ご列席の皆様、ブータンは人口約70万人の小さなヒマラヤの国です。国の魅力的な外形的特徴と、豊かで人の心をとらえて離さない歴史が、ブータン人の人格や性質を形作っています。ブータンは美しい国であり、面積が小さいながらも国土全体に拡がるさまざまな異なる地形に数々の寺院、僧院、城砦が点在し何世代ものブータン人の精神性を反映しています。手付かずの自然が残されており、我々の文化と伝統は今も強靭に活気を保っています。ブータン人は何世紀も続けてきたように人々のあいだに深い調和の精神を持ち、質素で謙虚な生活を続けています。 今日のめまぐるしく変化する世界において、国民が何よりも調和を重んじる社会、若者が優れた才能、勇気や品位を持ち先祖の価値観によって導かれる社会。そうした思いやりのある社会で生きている我々のあり方を、私は最も誇りに思います。我が国は有能な若きブータン人の手のなかに委ねられています。我々は歴史ある価値観を持つ若々しい現代的な国民です。小さな美しい国ではありますが、強い国でもあります。それゆえブータンの成長と開発における日本の役割は大変特別なものです。我々が独自の願望を満たすべく努力するなかで、日本からは貴重な援助や支援だけでなく力強い励ましをいただいてきました。ブータン国民の寛大さ、両国民のあいだを結ぶより次元の高い大きな自然の絆。言葉には言い表せない非常に深い精神的な絆によってブータンは常に日本の友人であり続けます。日本はかねてよりブータンの最も重大な開発パートナーのひとつです。それゆえに日本政府、およびブータンで暮らし、我々とともに働いてきてくれた日本人の方々の、ブータン国民のゆるぎない支援と善意に対し、感謝の意を伝えることができて大変嬉しく思います。私はここに、両国民のあいだの絆をより強め深めるために不断の努力を行うことを誓います。 改めてここで、ブータン国民からの祈りと祝福をお伝えします。ご列席の皆様。簡単ではありますが、(英語ではなく)ゾンカ語、国の言葉でお話したいと思います。「(ゾンカ語での祈りが捧げられる)」 ご列席の皆様。いま私は祈りを捧げました。小さな祈りですけれど、日本そして日本国民が常に平和と安定、調和を経験しそしてこれからも繁栄を享受されますようにという祈りです。ありがとうございました。

 

Tuesday, September 06, 2011

自家製麺「琥珀」@長野県飯田市羽場町

kohaku

鶏がらの旨みと追いがつおの風味が秀逸な化学調味料を一切使わない透明感ある“黄金色のスープ”と、店主自ら製麺機で作る自家製ストレート細麺のぷりぷりした食感の良さ…あまりの美味しさに一瞬絶句し、そして感動が広がります。30代前半の寡黙なイケメン店主が作る至高のラーメンです。

【メニュー】
琥珀そば(塩):740円
中華そば(醤油):720円
※ラーメンの大盛りは各100円増し
ざる琥珀(夏季限定):650円
餃子:360円
チャーたま丼:380円
琥珀梅茶漬け:260円
お子様ラーメン:400円
《ラーメントッピング》
チャーシュー増し:160円
ネギ増し:50円
のり増し:50円
煮たまご増し:50円
バター:50円


【店舗データ】
所在地:長野県飯田市羽場町1丁目5-11
営業時間:11時30分~14時30分、17時30分~21時30分
定休日:毎週水曜日、第3火曜日
駐車場:あり(4台)
店舗電話番号:非公開
座席:カウンター…5席、座敷…4人テーブル×1、2人テーブル×3(計15席)

 

Thursday, July 28, 2011

引用句辞典≪不朽版≫ 「やりたい仕事」

若者の最も苦手な真理 「楽」は「苦」の後に来る

始めている仕事はこれからやろうとする動機よりもずっと深い意味がある。協同の仕事がやりたいというかなり強い動機があって、一生涯それを頭のなかであれこれ思いめぐらしながら、ついに協同する仕事は何もやらなかったという人がいる。(中略)つまらぬ仕事などはないのだ、いったんやり出したならば。それは人の知るとおりだ。(中略)刺繍もはじめの幾針かはあまり楽しくもない。しかし、縫い進むにつれて、その楽しみが加速度的に倍加する。だからほんとうに、信じることが第一の徳であって、期待することは第二の徳にすぎないのだ。なぜなら、何ひとつ期待することなく始めなければならないからだ。期待がやってくるのは、仕事がはかどって、状況が進展してからである。仕事に即して現実の計画が生まれてくるものだ。

(アラン『幸福論』神谷幹夫訳、岩波文庫)

アランの本名はエミール=オーギュスト・シャルティエ。エコール・ノルマル・シューペリュール(高等師範学校)を卒業して哲学教員資格(アグレガシオン)を取得、フランス各地のリセ(高等中学校)を渡り歩いた後、1909年から名門アンリ四世校の高等師範学校入学試験準備クラス(通称カーニュ)で哲学を教え、同クラスに在籍したレイモン・アロン、シモーヌ・ヴェーユ、ジョルジュ・カンギレーム、アンドレ・モーロワなどに大きな影響を与えたが、大学教員にはならず、恩師のジュール・ラニョーにならってリセの教員として四十年間を過ごした。1906年から様々な新聞に「プロポ」と題した断章的エッセーを発表、モンテーニュやパスカルなどのフランス・モラリストの系譜につらなる、含蓄が深くてわかりやすい哲学的文章で人気を得た。日本では『幸福論』というタイトルで翻訳され、戦後の一時期に広く読まれた。

右の引用は、アランの幸福哲学(というより労働哲学)を凝縮した「始めている仕事」の一節。アランは言う、とにかくどんな仕事でもいいから、始めてみようと。切っ掛けはなんでもいい。いったん始めてしまうと、人はたとえそれが多くの労苦を伴うものであれ、その労苦の中に幸福を見いだすこともあるのだ。ただし、それには一つの条件がある。

「人間は自分からやりたいのだ、外からの力でされるのは欲しない。自分からすすんであんな刻苦する人たちも、強いられた仕事はおそらく好まない。だれだって強いられた仕事は好きではない」

さて、アランのこうした言葉を受けて、職業選択の問題について考えてみよう。

それは、「やりたい仕事」というのが、仕事を選ぶ「前」にそう感じるのと、仕事を選んでしまってからそう思うのとでは、まったく異なってくるということである。始めてみない限り、それが楽しいか否かはわからないし、また、自分がやるべき仕事だったのか、そのことも理解できない。しかも、本当に楽しさがわかるのは、仕事を始めてかなりたってからのことであり、それまではむしろおおいに労苦を伴うケースのほうが多い。

現代の労働の問題はあげてここにある。なぜなら、「面倒臭いことは嫌いだ」を第一原理として成長してきた現代の若者たちにとって、「これは最初はたいへんだけど、しばらくするとおもしろくなるやり甲斐のある仕事だから、とにかく続けてみなさい」と言っても、聞く耳を持たないからである。「いきなり」おもしろくなければイヤなのだ。同じように「これは基礎を修めた後にはじめて花開く学問・研究だから、基礎を疎かにしないように」と諭しても無駄である。面倒臭いことが先に来るものはすべて嫌われるのである。

「わかりました。で、なにかマニュアルのようなものはないんですか?」

これが、教師や先輩からアラン的な労働哲学を聞かされた後に、若者が発する問いである。やはり「いきなり」がキーワードなのだ。

近年、若者離れの著しいジャンルを眺めてみると、そのほとんどが「最初が面倒臭い」ものであることに気づく。仕事に限ったことではない。マージャン、運転免許取得、フランス語やドイツ語などの第二外国語、基礎物理、基礎化学、経済学、いづれも「苦しみの後に楽しみが来る」類いのものばかりである。

いや、どんな仕事も学問でも「いきなり」おもしろく、楽しいものなどないのだ。「教育」では第一に、このことを教えなければならない。

(鹿島茂・仏文学者、毎日新聞2011年7月27日朝刊)

 

Monday, July 11, 2011

冷静な消費から「熱い消費」で農家を救え!|ゲンキな田舎!

原発事故以来、毎日示されている放射線量。その数値をめぐる解釈には、今もわかりにくい部分が多い。国の説明に納得のいかない人たちの消費行動まで風評とひとくくりにされがちだが、個人が冷静に出した判断とパニック的行動は、同じ買い控えでも峻別されるべきだろう。

福島県や関東地域の農作物に対する反応では「落ち着こう」というムードが広がる一方、「買わない」という選択をしている人も少なくない。多くは小さな子供を持つ親で、農薬や環境問題などに高い関心を持っている層であることも共通する。農薬の使用については国が安全基準を定めている。だが、オーガニック主義の消費者は農薬の量が気になるのではない。子供の体に入るものに化学物質を一切使ってほしくないのだ。そんな人たちには放射線も同じだ。受け入れがたいのは、数値というより原発から放射性物質が漏れ続けている事実なのである。

皮肉なのは、そうした考えの消費者と直販契約を結んで作物を提供してきた福島や関東の無農薬栽培農家が、原発事故以来、梯子を外されたかっこうになっていることだ。冷静な消費行動だけでは救いの手が届かない現実がある。いま求められているのは熟慮の末の熱い消費だ。

 

(鹿熊勤・ビーパル地域活性化総合研究所主任、「BE-PAL」8月号より)

 

Thursday, June 30, 2011

引用句辞典≪不朽版≫ 「次期首相選び」

いいかげんにしてほしい自己表現としての政治

政治家は毎日、毎時間のように、自分のうちに潜んでいる瑣末で、あまりにも人間くさい<敵>と闘いつづけねばならないのです。この敵とは、ごくありふれた虚栄心で、これはすべての仕事への献身の、そしてすべての距離(この場合には、自分と距離をおくことですが)の不倶戴天の敵なのです。(中略)

虚栄心とは、自分ができるだけ脚光を浴びるようにしたいという欲望のことで、この欲望のために政治家はこの二つの大罪【注・仕事に貢献しない姿勢と無責任】の片方を、ときには両方を犯すよう、強く誘惑されるのです。民衆政治家(デマゴーグ)の場合には、「効果」を考慮にいれなければならないだけに、この誘惑はきわめて強いものとなります。そして俳優のようにふるまい、自分の行為にたいする責任を軽く考え、自分の行為が与える「印象」ばかりを気にするようになる危険に、つねに脅かされているのです。

(マックス・ウェーバー「職業としての政治」 『職業としての政治/職業としての学問』所収、中山元訳、日経BP社)

6月2日の内閣不信任案採決のときにはパリに向かう飛行機の中にいた。ホテルでインターネットをつないで結果を知り、唖然とした。帰国したら、マスコミは次期首相の評定に浮かれている。関心が皆無いわけではないので、顔触れを眺めてみたがいま一つの人材ばかりである。というのも、マックス・ウェーバーがいうように、政治家には絶対あってはならない資質である「虚栄心」の持ち主がすくなくないように思えたからだ。

もちろん、虚栄心はだれにでもある。第一、虚栄心がなければ政治家になろうとなどしないだろう。問題は、政治家の虚栄心が「自己表現願望」となって現れてくることにある。すなわち「俳優のようなふるまい」、「自分の行為が与える『印象』ばかりを気にする」ようになったら最後、政治は「国民の政治」などではなく「自己表現のための政治」となってしまう。つまりカッコよくふるまい、ヒーローとしてマスコミの喝采を浴びたいがために権力を追求して首相の座を射止めようとする「ドーダ政治家」のステージと化すのだ。

とりわけ、民主党政権が生んだ二人の首相、すなわち、鳩山由紀夫と菅直人にはこの「自己表現としての政治」の疑いが強い。彼らは、国家戦略を定め、なにかしらの政策を実現せんがために政治家になったというより、ただ虚栄心の満足を得たいがために、すなわち「ドーダ、まいったか、このオレは凄いだろう」と思わせたいために権力を目指したとしか思えないのである。

まったくもって迷惑千万な話である。そんなに自己表現がしたいなら、政治以外のどこかほかの場所でやってくれといいたいが、彼らをこうした「自己表現としての政治」に追いやったのは、小泉純一郎元首相の劇場型政治に喝采を送ったマスコミであり、そのマスコミの「ぶら下がり」報道をスポーツ観戦でもするように喜んで眺めていたのは国民なのだ。国民のなかに潜む自己表現願望が「自己表現系の政治家」を次々につくりだしてしまったのである。

しかし、「平時」なら、こうした自己表現系の政治家でもそれほどのボロは出さないだろう。だが、いったん危機的状況に見舞われるや、この種の政治家はたちまちにして弱点を露呈する。ウェーバーは右の引用に続けてこう指摘している。「わたしたちは典型的な権力政治家が、精神的にどれほど唐突に崩壊してしまうものか、いくつか実例を目撃してきただけに、この誇らしげでまったく空虚な身振りの背後に、どれほどの精神的な弱さと無力が潜んでいるのかが分かるのです」

では、自己表現系でない「まっとうな政治家」となるには、どのような資質が必要なのか?

ウェーバーによれば、それは情熱と責任感と判断力、なかで一つだけといったら判断力ということになる。すなわち、仕事への「責任感」という形をとる「情熱」がまず不可欠だが、しかし、その情熱は判断力によって裏打ちされたものでなければならないのだ。「判断力とは、集中力と冷静さをもって現実をそのままうけいれることのできる能力、事物と人間から距離をおくことのできる能力のことです」

ふーむ、これは大変だ。どうみても、次期首相候補者の中に、こうした情熱・責任感・判断力の三つを併せ持った政治家がいるとは思えないからだ。

ポスト菅においても日本の前途はなお多難である。

鹿島茂・仏文学者、毎日新聞2011年6月22日朝刊)

東條英機元首相「公的な遺書全文」

遺書

東條英機

開戦当時の責任者として敗戦のあとをみると実に断腸の思いがする。今回の刑死は個人的には慰められておるが、国内的の自らの責任は死を以て償えるものではない。

しかし国際的の犯罪としては無罪を主張した。今も同感である。ただ力の前に屈した。自分としては国民に対する責任を負って満足に刑場に行く。ただこれにつき同僚に責任を及ぼしたこと、又下級者にまで刑が及んだことは実に残念である。

天皇陛下に対し、また国民に対しても申し訳ないことで深く謝罪する。

元来日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志に依り行動すべきものであったが、一部過ちを犯し、世界の誤解を受けたのは遺憾であった。

此度の戦争に従事してたおれた人及び此等の人々の遺家族に対しては、実に相済まぬと思って居る。心から陳謝する。

今回の裁判の是非に関しては、もとより歴史の批判を待つ。もしこれが永久平和のためということであったら、も少し大きな態度で事に臨まなければならないのではないか。

此の裁判は結局は政治裁判で終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。

天皇陛下の御地位及び陛下の御存在は動かすべからざるものである。

天皇存在の形式については敢えて言わぬ。

存在そのものが絶対に必要なのである。それは私だけでなく多くの者は同感と思う。

空気や地面の如く大きな恩は忘れられないものである。

東亜の諸国民は今回のことを忘れて、将来相協力すべきものである。東亜民族も亦他の民族と同様に天地に生きる権利を有つべきものであって、その有色たるを寧ろ神の恵みとして居る。印度の判事には尊敬の念を禁じ得ない。これを以て東亜諸民族の誇りと感じた。

今回の戦争に因りて東亜民族の生存の権利が了解せられ始めたのであったら幸いである。列国も排他的の感情を忘れて共栄の心持ちを以て進むべきである。

現在の日本の事実上の統治者である米国人に対して一言するが、どうか日本人の米人に対する心持ちを離れしめざるよう願いたい。又日本人が赤化しないように頼む。

大東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにされなければならぬ。

実は東亜の他民族の協力を得ることが出来なかったことが、今回の敗戦の原因であったと考えている。

今後日本は米国の保護の下に生きて行くであろうが、極東の大勢はどうであろうか。終戦後、僅か三年にして、亜細亜大陸赤化の形勢は斯くの如くである。

今後の事を考えれば、実に憂慮にたえぬ。もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上もないではないか。

今、日本は米国より食料の供給その他の援助につき感謝している。しかし、一般人がもしも自己に直接なる生活の困難やインフレや食料の不足などが、米軍が日本に在るが為なりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。

実際はかかる宣伝を為しつつものがあるのである。

依って米軍が日本人の心を失わぬよう希望する。

今次戦争の指導者たる米英側の指導者は大きな失敗を犯した。

第一に日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。

第二は満州を赤化の根拠地たらしめた。

第三は朝鮮を二分して東亜紛争の因たらしめた。米英の指導者は之を救済する責任を負うて居る。

従ってトルーマン大統領が再選せられたことはこの点に関し有り難いと思う。

日本は米軍の指導に基づき武力を全面的に放棄した。これは賢明であったとおもう。

しかし世界国家が全面的に武装を排除するならばよい。然らざれば、盗人が跋扈する形となる(泥棒がまだ居るのに警察をやめるようなものである)。

私は戦争を根絶するためには慾心を人間から取り去らねばと思う。現に世界各国、何れも自国の存在や自衛権の確保を主として居る(これはお互い慾心を放棄しておらぬ証拠である)。国家から慾心を除くということは不可能のことである。されば世界より今後も戦争を無くするということは不可能である。

それ故、第三次世界大戦に於いて主なる立場にたつものは米国及びソ連である。

第二次世界大戦に於いて日本と独乙というものが取り去られてしまった。それが為、米国とソ連というものが、直接接触することになった。米ソ二国の思想上の根本的相違は止むを得ぬ。この見地から見ても、第三次世界大戦はさけることが出来ぬ。

第三次世界大戦に於いては極東、即ち日本と支那、朝鮮が戦場となる。此の時に当たって米国は武力なき日本を守る策をたてなければならぬ。

これは当然米国の責任である。日本を属領と考えるのであれば、また何をか言わんや。

そうでなしとすれば、米国は何等かの考えがなければならぬ。

米国は日本八千万国民の生きて行ける道を考えてくれなければならない。

凡そ生物として自ら生きる生命は神の恵みである。育児制限の如きは神意に反するもので行うべきでない。

なお言いたき事は、公、教職追放や戦犯容疑者の逮捕の件である。今は既に戦後三年を経過して居るのではないか。従ってこれは速やかに止めてほしい。日本国民が正業に安心して就くよう、米国は寛容の気持ちをもってやってもらいたい。

我々の処刑をもって一段落として、戦死傷者、戦災死者の霊を遺族の申し出あらば、これを靖国神社に合祀せられたし。

出征地に在る戦死者の墓には保護を与えられたし。従って遺族の申し出あらば、これを内地に返還せられたし。戦犯者の家族には保護をあたえられたし。

青少年男女の教育は注意を要する。将来大事な事である。近事、いかがわしき風潮あるは、占領軍の影響から来ているものが少なくない。この点については、我が国の古来の美風を保つことが大切である。

今回の処刑を機として、敵、味方、中立国の国民羅災者の一大追悼慰霊祭を行われたし。世界平和の精神的礎石としたいのである。勿論、日本軍人の一部に間違いを犯した者はあろう。此等については哀心謝罪する。

然しこれと同時に無差別攻撃や原子爆弾の投下による悲惨な結果については、米軍側も大いに同情し憐愍して悔梧あるべきである。

最後に、軍事的問題について一言する。

我が国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。あれでは陸海軍一本の行動は採れない。兵役制については、徴兵制によるか、傭雇兵制によるかは考えなければならない。我が国民性に鑑みて再建軍隊の際に考慮すべし。再建軍隊の教育は精神主義を採らねばならぬ。忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任観念のないことは淋しさを感じた。この点については、大いに米軍に学ぶべきである。学校教育は従前の質朴剛健のみでは足らぬ。人として完成を図る教育が大切だ。

言いかえれば、宗教教育である。欧米の風俗を知らす事も必要である。

俘虜のことについては研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。

 

辞世

我ゆくもまたこの土地へかへり来ん国に報ゆることの足らねば

さらばなり苔の下にてわれ待たん大和島根に花薫るとき

 

 

※東條由布子著「祖父東條英機『一切語るなかれ』増補改訂版(文春文庫)」より