singular points…特異点における日常の風景

 

Thursday, July 28, 2011

引用句辞典≪不朽版≫ 「やりたい仕事」

若者の最も苦手な真理 「楽」は「苦」の後に来る

始めている仕事はこれからやろうとする動機よりもずっと深い意味がある。協同の仕事がやりたいというかなり強い動機があって、一生涯それを頭のなかであれこれ思いめぐらしながら、ついに協同する仕事は何もやらなかったという人がいる。(中略)つまらぬ仕事などはないのだ、いったんやり出したならば。それは人の知るとおりだ。(中略)刺繍もはじめの幾針かはあまり楽しくもない。しかし、縫い進むにつれて、その楽しみが加速度的に倍加する。だからほんとうに、信じることが第一の徳であって、期待することは第二の徳にすぎないのだ。なぜなら、何ひとつ期待することなく始めなければならないからだ。期待がやってくるのは、仕事がはかどって、状況が進展してからである。仕事に即して現実の計画が生まれてくるものだ。

(アラン『幸福論』神谷幹夫訳、岩波文庫)

アランの本名はエミール=オーギュスト・シャルティエ。エコール・ノルマル・シューペリュール(高等師範学校)を卒業して哲学教員資格(アグレガシオン)を取得、フランス各地のリセ(高等中学校)を渡り歩いた後、1909年から名門アンリ四世校の高等師範学校入学試験準備クラス(通称カーニュ)で哲学を教え、同クラスに在籍したレイモン・アロン、シモーヌ・ヴェーユ、ジョルジュ・カンギレーム、アンドレ・モーロワなどに大きな影響を与えたが、大学教員にはならず、恩師のジュール・ラニョーにならってリセの教員として四十年間を過ごした。1906年から様々な新聞に「プロポ」と題した断章的エッセーを発表、モンテーニュやパスカルなどのフランス・モラリストの系譜につらなる、含蓄が深くてわかりやすい哲学的文章で人気を得た。日本では『幸福論』というタイトルで翻訳され、戦後の一時期に広く読まれた。

右の引用は、アランの幸福哲学(というより労働哲学)を凝縮した「始めている仕事」の一節。アランは言う、とにかくどんな仕事でもいいから、始めてみようと。切っ掛けはなんでもいい。いったん始めてしまうと、人はたとえそれが多くの労苦を伴うものであれ、その労苦の中に幸福を見いだすこともあるのだ。ただし、それには一つの条件がある。

「人間は自分からやりたいのだ、外からの力でされるのは欲しない。自分からすすんであんな刻苦する人たちも、強いられた仕事はおそらく好まない。だれだって強いられた仕事は好きではない」

さて、アランのこうした言葉を受けて、職業選択の問題について考えてみよう。

それは、「やりたい仕事」というのが、仕事を選ぶ「前」にそう感じるのと、仕事を選んでしまってからそう思うのとでは、まったく異なってくるということである。始めてみない限り、それが楽しいか否かはわからないし、また、自分がやるべき仕事だったのか、そのことも理解できない。しかも、本当に楽しさがわかるのは、仕事を始めてかなりたってからのことであり、それまではむしろおおいに労苦を伴うケースのほうが多い。

現代の労働の問題はあげてここにある。なぜなら、「面倒臭いことは嫌いだ」を第一原理として成長してきた現代の若者たちにとって、「これは最初はたいへんだけど、しばらくするとおもしろくなるやり甲斐のある仕事だから、とにかく続けてみなさい」と言っても、聞く耳を持たないからである。「いきなり」おもしろくなければイヤなのだ。同じように「これは基礎を修めた後にはじめて花開く学問・研究だから、基礎を疎かにしないように」と諭しても無駄である。面倒臭いことが先に来るものはすべて嫌われるのである。

「わかりました。で、なにかマニュアルのようなものはないんですか?」

これが、教師や先輩からアラン的な労働哲学を聞かされた後に、若者が発する問いである。やはり「いきなり」がキーワードなのだ。

近年、若者離れの著しいジャンルを眺めてみると、そのほとんどが「最初が面倒臭い」ものであることに気づく。仕事に限ったことではない。マージャン、運転免許取得、フランス語やドイツ語などの第二外国語、基礎物理、基礎化学、経済学、いづれも「苦しみの後に楽しみが来る」類いのものばかりである。

いや、どんな仕事も学問でも「いきなり」おもしろく、楽しいものなどないのだ。「教育」では第一に、このことを教えなければならない。

(鹿島茂・仏文学者、毎日新聞2011年7月27日朝刊)

 

Monday, July 11, 2011

冷静な消費から「熱い消費」で農家を救え!|ゲンキな田舎!

原発事故以来、毎日示されている放射線量。その数値をめぐる解釈には、今もわかりにくい部分が多い。国の説明に納得のいかない人たちの消費行動まで風評とひとくくりにされがちだが、個人が冷静に出した判断とパニック的行動は、同じ買い控えでも峻別されるべきだろう。

福島県や関東地域の農作物に対する反応では「落ち着こう」というムードが広がる一方、「買わない」という選択をしている人も少なくない。多くは小さな子供を持つ親で、農薬や環境問題などに高い関心を持っている層であることも共通する。農薬の使用については国が安全基準を定めている。だが、オーガニック主義の消費者は農薬の量が気になるのではない。子供の体に入るものに化学物質を一切使ってほしくないのだ。そんな人たちには放射線も同じだ。受け入れがたいのは、数値というより原発から放射性物質が漏れ続けている事実なのである。

皮肉なのは、そうした考えの消費者と直販契約を結んで作物を提供してきた福島や関東の無農薬栽培農家が、原発事故以来、梯子を外されたかっこうになっていることだ。冷静な消費行動だけでは救いの手が届かない現実がある。いま求められているのは熟慮の末の熱い消費だ。

 

(鹿熊勤・ビーパル地域活性化総合研究所主任、「BE-PAL」8月号より)