singular points…特異点における日常の風景

 

Thursday, October 07, 2010

第7章 デザイン思考が企業に出会うときー釣りを教える

「網を与える」より抜粋

P&G、ヒューレット・パッカード、スチールケースなど、製品の製造とブランドの管理を行う企業は、企業文化を転換する上では一歩有利だ。というのは、従業員の中に、すでにデザイナーや、さらにはデザイン思考家さえもが存在しているからだ。デザインに戦略的役割を持たせる利点について、経営陣を説得するのは確かに難しい。しかし、経営陣が納得さえすれば、企業に才能ある人材を探すのはそう難しくない。一方、サービス組織や、以前からデザインをアウトソーシングしてきた製造企業では、そのような人材ベースは存在しない可能性があるため、組織の転換はいっそう困難になる。

医療大手のカイザー・パーマネンテがその好例だ。2003年、カイザーは患者と医師の両方の観点から、医療経験の全般的な質の改善に乗り出した。IDEOは、病院に多くのデザイナーを雇う代わりに、既存の職員にデザイン思考の原理を学ばせ、自分自身で応用してもらうべきだと提案した。数ヶ月にわたって、IDEOは看護師、医師、管理者に、さまざまなイノベーションを引き出す一連のワークショップを開催した。その中のひとつ、看護師のシフト交替について見直すプロジェクトには、IDEOのデザイナーを筆頭に、元看護師の戦略家、組織開発の専門家、プロセス・デザイナー、労働組合の代表者が参加した。

4つのカイザー病院の最前線で働く医療従事者たちと協力し合う中で、コア・チームはシフト交替の問題点に気付いた。勤務を終えた看護師が引き継ぎの看護師に患者の状態を伝えるのに、毎回45分間もかかっていたのだ。その手順は一貫性がなく、指示内容の録音や対面のミーティングなど、病院によっても異なっていた。さらに、情報を記録する方法も、ポスト・イットをあちこちに貼るというものから、医療着に情報を走り書きするというものまで、さまざまだった。その過程で、患者にとって重要な情報が失われることも多かった。直前のシフトで患者の状態はどうだったのか? 家族の誰が見舞いに来ていたか? どの検査や治療が完了しているのか? 多くの患者が、シフトの交替で治療に穴が空いていると感じていることが分かった。これらの観察に基づいて、お馴染みの強力なデザイン・プロセスが実施された。プロのデザイナーではなく、カイザーのスタッフ自身によって、ブレインストーミング、プロトタイプ製作、ロール・プレイ、ビデオ撮影が行われたのだ。

その結果、アプローチが変更された。看護師は、ナース・ステーションではなく、患者の前で情報を交換するようになった。わずか1週間で製作されたプロトタイプには、新しい手順をはじめとして、看護師が勤務時間中のいつでもシフト交替前のメモを参照し、新しいメモを追加できる、シンプルなソフトウェアも含まれていた。さらに重要なのは、患者がプロセスの一部になったということだ。患者自身が自分にとって重要な情報を提起できるようになったのだ。カイザーがこの変化の影響を測定したところ、看護師がシフトに就いてから最初に患者と接するまでの平均時間が半分以下になったことが分かった。また、看護師の勤務に対する感じ方にも変化があった。調査で、ある看護師はこうコメントした。「仕事が1時間も早く進んでいます。まだ勤務を始めてから45分なのに」。別の看護師は、興奮した様子でこう話した。「定時で帰宅できたのは初めてです」

シフト交替の新しい方法は、患者や看護師に大きな影響を及ぼしたが、カイザーの全般的な医療の質を体系的に改善するという念願の目標を達成するまでは、長い道のりだった。この目標を実現するために、看護師、開発の専門家、技術者からなるコア・チームは、独自のプロジェクトを実施する代わりに、残りの組織のコンサルタントの役割を果たすようになった。カイザー・パーマネンテ・イノベーション・コンサルタンシーの設立を通じて、チームは患者の経験を向上させ、カイザーの「未来の病院像」を構想し、組織全体にイノベーションとデザイン思考を導入するという使命を追及している。

組織全体にわたる変化を実現するには、体系的なアプローチが必要だ。看護師や管理者(あるいは、エグゼクティブ、事務員、支店長、銀行の窓口係)を摩訶不思議なデザイン思考の世界にいざなうことで、情熱、エネルギー、創造性を解き放つことができる。カイザーの場合、病院のシステム全体にわたって展開できる文字通り何十ものイノベーティブなアイデアが生まれた。また、システムと格闘するばかりに時間を費やし、システムを再デザインする役割を果たすことなど考えもしなかった人々に、新たなレベルの参加を促すこともできる。しかし、継続的な取り組みや一貫したアプローチがなければ、複雑な医療システムを運営するという日々の課題に追われ、当初の活動は前進しなかったはずだ。

出典:ティム・ブラウン著「デザイン思考が世界を変える~イノベーションを導く新しい考え方(ハヤカワ新書juice)」より

 

※IDEO:アメリカに本社を置く、企業デザイン・コンサルタント会社。アップル社のマウスや、PDAの名機であるパームⅤなどのプロダクトデザインを手がけたことで有名。

※ティム・ブラウン:デザイン・ファームIDEOの社長兼CEO

※イノベーション:イノベーション(innovation)とは、物事の「新機軸」「新しい切り口」「新しい捉え方」「新しい活用法」(を創造する行為)のこと。新しい技術の発明だけではなく、新しいアイデアから社会的意義のある新たな価値を創造し、社会的に大きな変化をもたらす自発的な人・組織・社会の幅広い変革である。つまり、それまでのモノ、仕組みなどに対して、全く新しい技術や考え方を取り入れて新たな価値を生み出し、社会的に大きな変化を起こすことを指す。

※デザイン思考:本書ではイノベーションに対する新しいアプローチ、手法のことを指す。人間中心の考え方というだけでなく、人間の本質そのものを捉える考え方。

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