引用句辞典≪不朽版≫ 「次期首相選び」
いいかげんにしてほしい自己表現としての政治
政治家は毎日、毎時間のように、自分のうちに潜んでいる瑣末で、あまりにも人間くさい<敵>と闘いつづけねばならないのです。この敵とは、ごくありふれた虚栄心で、これはすべての仕事への献身の、そしてすべての距離(この場合には、自分と距離をおくことですが)の不倶戴天の敵なのです。(中略)
虚栄心とは、自分ができるだけ脚光を浴びるようにしたいという欲望のことで、この欲望のために政治家はこの二つの大罪【注・仕事に貢献しない姿勢と無責任】の片方を、ときには両方を犯すよう、強く誘惑されるのです。民衆政治家(デマゴーグ)の場合には、「効果」を考慮にいれなければならないだけに、この誘惑はきわめて強いものとなります。そして俳優のようにふるまい、自分の行為にたいする責任を軽く考え、自分の行為が与える「印象」ばかりを気にするようになる危険に、つねに脅かされているのです。
(マックス・ウェーバー「職業としての政治」 『職業としての政治/職業としての学問』所収、中山元訳、日経BP社)
6月2日の内閣不信任案採決のときにはパリに向かう飛行機の中にいた。ホテルでインターネットをつないで結果を知り、唖然とした。帰国したら、マスコミは次期首相の評定に浮かれている。関心が皆無いわけではないので、顔触れを眺めてみたがいま一つの人材ばかりである。というのも、マックス・ウェーバーがいうように、政治家には絶対あってはならない資質である「虚栄心」の持ち主がすくなくないように思えたからだ。
もちろん、虚栄心はだれにでもある。第一、虚栄心がなければ政治家になろうとなどしないだろう。問題は、政治家の虚栄心が「自己表現願望」となって現れてくることにある。すなわち「俳優のようなふるまい」、「自分の行為が与える『印象』ばかりを気にする」ようになったら最後、政治は「国民の政治」などではなく「自己表現のための政治」となってしまう。つまりカッコよくふるまい、ヒーローとしてマスコミの喝采を浴びたいがために権力を追求して首相の座を射止めようとする「ドーダ政治家」のステージと化すのだ。
とりわけ、民主党政権が生んだ二人の首相、すなわち、鳩山由紀夫と菅直人にはこの「自己表現としての政治」の疑いが強い。彼らは、国家戦略を定め、なにかしらの政策を実現せんがために政治家になったというより、ただ虚栄心の満足を得たいがために、すなわち「ドーダ、まいったか、このオレは凄いだろう」と思わせたいために権力を目指したとしか思えないのである。
まったくもって迷惑千万な話である。そんなに自己表現がしたいなら、政治以外のどこかほかの場所でやってくれといいたいが、彼らをこうした「自己表現としての政治」に追いやったのは、小泉純一郎元首相の劇場型政治に喝采を送ったマスコミであり、そのマスコミの「ぶら下がり」報道をスポーツ観戦でもするように喜んで眺めていたのは国民なのだ。国民のなかに潜む自己表現願望が「自己表現系の政治家」を次々につくりだしてしまったのである。
しかし、「平時」なら、こうした自己表現系の政治家でもそれほどのボロは出さないだろう。だが、いったん危機的状況に見舞われるや、この種の政治家はたちまちにして弱点を露呈する。ウェーバーは右の引用に続けてこう指摘している。「わたしたちは典型的な権力政治家が、精神的にどれほど唐突に崩壊してしまうものか、いくつか実例を目撃してきただけに、この誇らしげでまったく空虚な身振りの背後に、どれほどの精神的な弱さと無力が潜んでいるのかが分かるのです」
では、自己表現系でない「まっとうな政治家」となるには、どのような資質が必要なのか?
ウェーバーによれば、それは情熱と責任感と判断力、なかで一つだけといったら判断力ということになる。すなわち、仕事への「責任感」という形をとる「情熱」がまず不可欠だが、しかし、その情熱は判断力によって裏打ちされたものでなければならないのだ。「判断力とは、集中力と冷静さをもって現実をそのままうけいれることのできる能力、事物と人間から距離をおくことのできる能力のことです」
ふーむ、これは大変だ。どうみても、次期首相候補者の中に、こうした情熱・責任感・判断力の三つを併せ持った政治家がいるとは思えないからだ。
ポスト菅においても日本の前途はなお多難である。
鹿島茂・仏文学者、毎日新聞2011年6月22日朝刊)