引用句辞典≪不朽版≫ 「東日本大震災」
「嘔吐」から「ペスト」へ 究極の不条理とどう戦う?
「結局?」とタルーが静かにいった。
「結局……」と、医師は言葉を続け、そして、なおためらいながら、じいっとタルーの顔を見つめた。「これは、あなたのような人には理解できることではないかと思うのですがね、とにかく、この世の秩序が死の掟に支配されている以上は、おそらく神にとって、人々が自分を信じてくれないほうがいいかもしれないんです。そうしてあらんかぎりの力で死と戦ったほうがいいんです、神が黙している天上の世界に眼を向けたりしないで」
「なるほど」と、タルーはうなずいた。「いわれる意味はわかります。しかし、あなたの勝利はつねに一時的なものですね。ただそれだけですよ」
リウーは暗い気持ちになったようであった。
「つねにね、それは知っています。それだからって、戦いをやめる理由にはなりません」
「たしかに、理由にはなりません。しかし、そうなると僕は考えてみたくなるんですがね、このペストがあなたにとってはたしてどういうものになるか」
「ええ、そうです」と、リウーはいった。「間際なく続く敗北です」
(中略)
「誰が教えてくれたんです、そういういろんなことを?」
答えは即座に返ってきた―
「貧乏がね」
(アウベール・カミュ『ペスト』宮崎嶺雄訳 新潮文庫)
人間の想像力というのは限定されたものである。
2011年3月11日以前には、学生たちにこの『ペスト』を読ませても、≪ペスト≫が何を意味するか、あるいはペストが蔓延するオラン市の絶望的状況の中で孤独に戦う医師リウーの言葉を「実感」として理解できる学生は、ほんの一握りでしかなかった。
だが、いまは違う。≪ペスト≫の意味する不条理が何であるか、また戦いが「間際なく続く敗北」であることを知りながらも戦うことをやめないリウーの気持ちを理解しない学生は、一人もいないだろう。いや、いまの日本人なら全員がリウーの言葉を瞬時に理解できるはずである。
これほどに世界はたったの一日で劇的に変わってしまったのである。
3・11以前、日本はむしろサルトルの『嘔吐』の世界であった。バーチャルな人工的環境で育った日本の無数のロカンタンたちは、豊かさが提供するあらゆる「ひまつぶし」に倦み、そのあげく「剥き出しの木の根っこ」という本物の現実と接し、それをたまらなく不気味なものと感じて、ついには嘔吐にまで至るのが常だった。つまり、パリの石造建築の無菌的環境に育ったサルトルの脅えを「わがこと」のように感じるレベルまで日本の文明化は進んでいたのだが、その文明は東北・関東での大地震と大津波、それに続く原発事故によって脆くも崩壊し、カミュの『ペスト』の世界がいきなり現出したのである。
そして、この日本版『ペスト』の世界では、リウーに刺激されて保健隊を組織したタルーのように、ボランティアがたくさん現れてくることだろう。それは素晴らしいことだ。だが、私はそのボランティアに対して称賛記事を捧げるであろうジャーナリズムに対し、あらかじめカミュが『ペスト』の中で「筆者」として物語に介入して述べている次のような言葉を伝えたいと思うのである。
「筆者はむしろ、美しい行為に過大の重要さを認めることは、結局、間接の力強い賛辞を悪に捧げることになると、信じたいのである。なぜなら、そうなると、美しい行為がそれほどの価値をもつのは、それがまれであり、そして悪意と冷淡こそ人間の行為においてはるかに頻繁な原動力であるためにほかならぬと推定することも許される。かかることは、筆者の与しえない思想である。(中略)善き意志も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。(中略)最も救いのない悪徳とは、みずからすべてを知っていると信じ、そこでみずから人を殺す権利を認めるような無知の、悪徳にほかならぬのである」
つまりカミュは≪ペスト≫的な不条理と戦おうとすると、≪ペスト≫よりも悪いスターリニズムというスーパー不条理を呼び込んでしまう危険性を警告しているのである。
では誰がこれを教えてくれたのか? カミュは即座に答えるだろう。「貧乏がね」と。
貧困という不条理と戦ったことのない今の日本人の中から、地震・津波・原発事故といった究極の不条理と戦える指導者が現れるのだろうか?
(鹿島茂・仏文学者、毎日新聞2011年3月23日朝刊)