singular points…特異点における日常の風景

 

Saturday, January 03, 2009

「“変化”は外からやってくる」@IT情報マネジメントより

2008-2009年の年末年始、一応仕事してます(-_ゞ
“仕事があるだけありがたい”と思えるこの社会情勢下だからか、嫌だけど案外平気というか仕方ないと思える自分がいるので、人は環境に影響を受け易いんだなぁ、と今更ながら。
ただ、人生=仕事なわけではないし、“仕事人間”が社会的に立派なわけでもないだろうし、仕事が出来れば家庭生活が円満なわけでもないし、その逆もあるし、でも仕事が出来ないような人は地域社会の役にも立てないだろうし、仕事は出来る人は地域社会になんか目も向けない人も多いだろうし…人生ってやっぱ複雑ですし、思うようになかなかいかない時もあれば、予想外に上手くいく時もあると…結局のところ、何を言いたいかよく分からず書いておりますが、日々勉強する意欲だけは失いたくないですし、“常に考える”努力を怠らないようにしたいと思っております、ということぐらいは確か、だと思いたい年頭です。

比較的よく見るサイトで「秀逸だなぁ♪」と思える連載を“発見”しましたので、(マジでかなり長いですが)引用というかそのままコピペします。(更に文章的な繋なぎの言葉を勝手に直しております)
IT関連部署で働いている方でなくても、“ビジネスマンの基礎知識”として役に立ちそうな内容です。
是非ご一読を。



連載:何かがおかしいIT化の進め方(39)
「“変化”は外からやってくる」公江 義隆、2008/11/10

BRICsの台頭から、突然の人事異動まで、あらゆるレベルで変化は起こり続けている。だが、ものごとを注意深くみていれば変化の予兆は必ず含まれているものだ。常に革新が求められるIT技術者は、世の中全体を幅広く観察し、流れを読み取ることが大切だ。

【深く考えることと広く考えること】
 終わってしまえば急速に記憶から薄れてゆくが、今回の北京オリンピックはなぜか分からぬが見ていてシンドかった。1番印象に残ったのは金メダルを取った北島康介の涙でも、3連投の末、優勝を手にした女子ソフトボールの上野投手の超人的な気力でもない。オリンピック会場の内外に見られた中国の人海戦術、人員動員力である。

 この背景にある14億の巨大な人口が持つある種の恐ろしさを、あらためて認識させられた思いがする。開会式典において、いままで無視されていた孔子が取り上げられたのは何かの兆しであろうか。

 いま、グローバル化は道半ばである。これから次の段階へ向かって新たな局面を迎え、われわれはさらに大きな変化に遭遇することになると思う。誰しも、長い間同じ環境の中にいれば、それが当たり前になって問題意識がなくなったり、それが未来永劫に続くかのような錯覚に陥る。しかし、現実は厳しい。ようやく分かった、対応できたと思うころには次の変化が押し寄せてくる。

 話は小さくなるが、異動続きの社員がようやく本社勤務に戻り、それでも慎重に構えた末に、もう大丈夫かとマイホームを買った途端に転勤の辞令が出る――そんなことがよくあるが、誰かが意地悪をしているわけではない。自分の周囲の状況はとらえていても、その周囲の状況を動かしている事象を読み切れなかった結果だ。

 突然やってきたように思える大変化でも、注意深くみてみると、小さな兆しや変化が、事前に数多く起こっていることが多い。しかし、その変化の多くは外の世界、思いがけない分野で起こる。意識していないと、人の視野は思いのほか狭い。起こることを幅広く見ておくことが大切だ。

 環境問題と食料問題、エネルギー問題がこれほど密接に関与し合うようになったのも、日本、中国、米国の経済がこれほどまでに相互依存をし合うようになったのも、初めてのことである。1人の人生に経験のなかったようなことが起こっても、何も不思議ではない。

【ITの問題は外からやってくる】
 IT関係者はITを技術問題ととらえるゆえか、意識していないとITの島に閉じこもった状態になっている場合が多い。しかし、ITの問題に大きな変化をもたらす引き金はITの世界の外からやってくる。

 ふた昔も前なら、会社の状況や仕組みを知るうえで、財務諸表程度の知識があればこと足りた。その後も世の中の動きを知るうえで、経済の仕組みに関する簡単な知識があれば十分に仕事ができた。ここまではまだ“理屈”で考えられる世界であった。しかし現在は投機マネーが実体経済を振りまわす時代である。視野を広げないと世の中が見えてこない。ほかの分野や日本の外の動きにも、現在の事象の背景である過去の歴史にも、目を向けておくことが大切だと思う。

 歴史には人間や組織、集団の持つ特性や傾向が映し出されている。人や組織は同じような状況になれば、同じような判断や行動をしがちである。よほど意識していないと、過去の教訓は生かされない。1つの問題を深く掘り下げてゆくと、ほかの多くの分野の問題や、問題同士の幅広いかかわりが見えてくる。マネジメントに携わる人は、「深く考えることは、即、広く考えること」と肝に銘じておいてほしい。

【30億人に追い上げられる日本】
 この20年で起こったグローバライゼーションによる大変化の1つは、ソ連の崩壊により、かつて共産圏であった東欧諸国や、BRICsと呼ばれる所得水準の低かった経済新興国が、安い人件費を武器とした安価な商品の供給者として、人口10億人に満たない経済先進国の市場に加わったことである。

 やがて、これらの国の人々は所得水準の上昇に従い、徐々に消費者としても市場に参加してゆくことになった。これら新興国の人口総計は30億人に近い。追い上げる側が3倍の規模を持っていっせいに動き出すという、先例のないことが世界で進行している。

 人件費単価は、おおむね人の需給関係で決まる。人が都市の商工業に流出すれば、人の供給側である地方・農村部の人口が減少して、人件費は上がってゆく。しかし、30億人の人件費単価が上がるのには相当の時間を必要とする。このために、われわれは長期にわたり物価の安定というメリットを享受してきた。

 しかし、これらの国々も経済が発展し消費が増えれば、労働者の需要が増え、人件費の高騰が加速して、それが商品の価格を引き上げる。さらに原材料やエネルギー需要の増加が資源価格の高騰を招く。資源価格や人件費の高騰はコスト高となって輸出競争力を低下させる。

 しかし、人口14億の中国や11億のインドには、それぞれに人口10億の先進国全体と同じくらいの潜在的消費市場がある。コスト競争力が低下して安定成長段階に入ったとき、人件費の安さという武器に代わる新たな付加価値を生み出す技術力、開発力がどの水準までレベルアップしているか、消費市場がどこまで顕在化しているかによって、世界が受ける影響の内容は大いに変わってくる。特に隣国、中国から日本が受ける影響は大きい。

 繰り返しになるが、いま、われわれはこうした巨大な人口の国々の追い上げを受けている。これによって次々と起こってくる事象を敏感に察知し、目先の対応とともに、長期的な観点による基礎対策と覚悟が必要になる。そのためには、事前に分かる範囲内だけでも問題の構造を整理しておくことが役に立つと思う。

 その際、注意すべき点は2つある。1つは経済の成長は複利計算で起こる。必要な資源や労働力は指数関数的に増加する。つまり後になるほど変化の絶対値は大きくなるということだ。もう1つは何といっても新興国の人口規模の大きさだ。日本の10倍の人口を持つ中国における1の変化は、日本の10の変化に相当するほどの影響力を持つ。例えば「ごく一部の割合の富裕層」といっても、その絶対値はバカにできない。

【日本に追い上げられた米国】
 歴史的に見れば、経済圏が拡大したり、境界線が消滅したような事例はいくつもある。例えば20世紀前半、英国から覇権を奪った米国にとっての大きな経済的脅威は、1970~80年代の日本であったと思う。当時、日本は貿易や資本の自由化が進むことを恐れていたが、痛手をこうむったのは米国産業の方であった。

 当時、日本の人件費は安く、労働者は勤勉そのものであった。「追いつけ追い越せ」を合言葉に寝食を忘れるほどの努力で積み上げた技術力などによって、製造業の分野では米国を凌駕する日本企業も生まれてきた。1970年代に日本企業に広く普及していった業務処理のオンライン化システムは、現場業務の形態を抜本的に変え、生産性を向上させて、日本企業の競争力を大いに高めた。

 日本製品の進出で米国企業の経営は厳しさを増した。ベトナム戦争で財政的にも社会的にも疲弊していた米国は、日本から大きなストレスを受けることになった。

 「日米繊維交渉」が両国間の大きな政治課題になった。君津や水島、和歌山、加古川などが台頭し、われわれが子供のころ「鉄鋼の街」と教えられたピッツバーグから煙突が1本1本消えていった。USスチールに次いで業界第2位であったベツレヘムスチールは1990年代初めに廃業した。高い技術と品質、知名度を誇っていた電子・電機メーカーのRCA(Radio Corporation of America)や、総合電機メーカーであったGE(General Electric)の電子・電機市場における後退が続いた。

 「GMは国家なり」とまでいわれたデトロイトの自動車産業にも陰りが生じた。従業員に従来のような好待遇を保障することが難しくなり、全米最大規模を誇った全米自動車労働組合の立場、ひいては労働者の日常生活に影を落とす引き金となった。労働者と経営者の間で長年維持されてきた、安定した関係が崩壊しはじめた。

 このような世の流れの中で、労働者の立場は弱まり、一般社員の給与が下がり、経営者の収入は大幅に高騰し始めた。一方で、「競争の激化」は「供給力の超過」でもある。結果的に需要側、つまり消費者の力が強まり、企業は顧客志向に向かわざるを得なくなった。現在のCRMの背景はこの辺りにあると思う。1人の労働者は企業構成員という“財”の立場と、消費者という“民”の立場という、利害対立の矛盾を内に抱え込むことになった。

【二枚腰の米国】
ただ、人口1億3000万人の日本が、その2倍強の米国に攻め込んだ経済戦争の第1ラウンド、「産業問題という競争」では日本が優勢だったものの、1980年代に入ると「日米半導体交渉」など、経済戦争の結果として発生した国際収支、金融、経済構造などの問題が、日米間の政治・外交課題に発展した。その経済戦争第2ラウンドでは、日本の苦戦が続くことになった。

 一方で、米国は国を挙げて日本の製造業の研究に取り組んでいた。1980年代後半~1990年代初めに続々と発表された「バーチャルカンパニー」(注)や「BPR」「フラットな組織」「リーン生産方式」といった新しい概念の背景には、日本の「系列」や「かんばん方式」「改善活動」「組織横断型の製品開発体制」などがあったといわれている。

 また、リストラを徹底的に進めていた米国企業の間では、人とともに知識・ノウハウまで流出していたことを背景に、これも実は“日本企業研究”の一端であったナレッジマネジメントなる分野が話題になった。調子のよいマスコミや識者は、「企業はCKO(Chief Knowledge Officer)を設けよ」などと騒ぎ立てたが、問題の本質は、創造力の育成にあって知識や情報の管理ではない。当然のことながらCKO論は現場では一顧だにされなかった。

 こうした中、ITベンダはグループウェアと称する商品の売り込みに走った。売り文句であった「知恵を生み出す仕組み」にはなり得なかったが、組織をフラット化したり、オペレーショナル情報を伝達・共有化するうえで、一定の効果を上げた。

                        ◇

 ちなみに、米国を追い込んだ当時の日本において、韓国脅威論が盛んになった時期がある。鉄鋼、造船、電子、自動車などの近代的な企業が誕生したものの、人口5000万の韓国は人件費の高騰により価格競争力を低下させ、日本や米国の全面的な経済的脅威となるまでには至らなかった。だが2000年代に入って、グローバル市場で力をつけた韓国や台湾の一部の企業は日本企業を凌駕する存在になっている。

注: ある完結した目的を達成することを前提に、複数の企業で組織する共同体のこと。1993年、米国の経営コンサルタント、ウィリアム・H・ダビドゥとマイケル・S・マローンが著した「バーチャル・コーポレーション」でその概念が紹介された。

【傲慢と怠惰で身を滅ぼす日本】
 1980年代、日本の労働者の給与水準は西ドイツに次ぐ世界最高水準となっていた。「Japan As No.1」(注1)といわれ、“As”を“Is”と誤解してはしゃぎ、傲慢になり、そして怠惰になっていった。その後、1985年のプラザ合意(注2)の結果、海外資金の日本国内への還流が起こり、また円高による輸出減による不況を懸念して低金利政策を採ったため、市場に“マネー”がだぶつき、土地・株への投機バブルが発生した。国内産業はこのあだ花に沸き返り、庶民はディスコで大フィーバーした。

 その裏では、円高による輸出不振が続く中、コスト低減に骨身を削る輸出産業が、製造拠点の大々的な海外移転や部品の海外調達に踏み出し、その結果、国内産業の空洞化が急速に進んだ。

 「Japan As No.1」とは、わずか数十社の製造業やその関連企業だけに当てはまる言葉であった。国際競争力を飛躍的に向上させ、日本が必要とする食料や資源、エネルギーを購入するための外貨のほとんどは彼らが稼ぎ出していた。高賃金を謳歌した国内サービス産業の多くは生産性が低く、国際競争力は付いていなかった。そして残念ながら、こうした構造はいまだに続いている。

 そして1990年、バブルははじけ、多額の不良資産を抱えて金融機関は瀕死の状態となり、日本経済は多くの国内サービス産業と共に長期にわたり低迷することになる。

注1: 米国人、エズラ・F・ヴォーゲルによる著書名(1979年、TBSブリタニカ刊)。当時、日本国内でも70万部を超えるベストセラーとなった。日本の発展を支えたあらゆる制度・仕組みを学び、そこから得られた教訓を米国民に向けて説いたもの。手放しの“日本礼賛論”ではない。
注2: 1985年、米国の呼び掛けにより、当時のG5(日・米・英・独・仏の先進5か国)がニューヨーク・プラザホテルに集い、米国の対外貿易赤字を是正するため、各国がドル安に向けて為替市場に協調介入することに合意した。

【歴史は繰り返すか】
 江戸時代末期、黒船来航を受けて、しぶしぶ国を開いた日本は、明治維新で西欧文明を積極的に取り入れた。そして富国強兵策を取った40年後、実はそれ以上戦争を行えないほど疲弊していながらそうと知らされず、「大国ロシアとの戦いに勝利した」と国民は有頂天になったが、その後、政府や軍部の国際社会における立ち回りの拙さや、実力不相応の企てによって、第2次世界大戦への道にずるずるとはまり込んでいく。

 そして1945年、国を焦土と化して第2次世界大戦に敗戦し、そのどん底から立ち上がった40年後には「Japan As No.1」とおだてられてバブルに踊る。そこからまた下り坂を転がり始めて20年、日本はグローバライゼーションという“黒船の来航”に、いまだに右往左往している。

 「己を知り、敵を知る」ことが、問題解決の大前提のはずなのだが、「日本は、もはや経済一流国ではない」と、本音の発言をした経済財政担当大臣は各方面から批判を浴び、具体的な成長施策を示すことなく「日本には底力がある」という政治家に人気が集まる。他国をけなし、日本の優秀さだけを説く書籍が書店にならぶ。危険な兆候だ。

 すでに、中国は「強くなれば脅威、混乱しても脅威」という大きな存在になってしまっている。その対処の方法を、本当に、真剣に考えなければならない隣国なのだ。しかも、日本企業が国内競争に明け暮れている間に、韓国や台湾の企業はグローバル市場で力をつけ、中には日本が遅れを取っている分野も出始めているのである。

【米国の反撃(1)~規制緩和による競争力強化~】
 では、1970~80年代に日本に追い込まれた米国が、その後どのような道を歩んだのか、文化的に関連性が深い英国の歩みをからめて、その歴史を振り返ってみたい。

 1980年代、英国サッチャー首相、米国のレーガン大統領はそれぞれ、行政、税制、教育、規制緩和・撤廃など、“小さな政府”の実現に向けて多面にわたる改革を行った。「日本のリーダーにはここまで非情に徹してやり遂げる気力があるだろうか」「日本国民ならこれほどの荒療治を許すだろうか」というほどの内容であった。

 例えば、サッチャーは、強硬な姿勢で抵抗する炭鉱労働者のストライキには、鉱山の閉鎖という荒っぽい手段で労働組合を敗北に追い込み、レーガンは軍や退役軍人を動員して航空管制官のストライキつぶしを行ったうえ、ストに参加した管制官をブラックリストに載せて再就職もできないようにし、恐怖政治とまで呼ばせた。

 そのかいあって両国とも経済成長は回復したが、代償として一部の強者と多数の弱者を発生させるという新たな社会問題を生む結果となった。また、米国では減税と激増した軍事費により、巨大な財政赤字と消費拡大による膨大な貿易赤字を残したが、貿易相手国が得たドルで米国債を買わせるという仕組みを作り、ドルの還流を図った。

 英国は、長年の財政赤字、インフレと労働組合のストライキに悩んでいたが、サッチャーは鉄鋼から通信にいたる国営企業の民営化を断行した。インフレ抑制のために不況の中で金利を引き上げ(注3)、財政赤字の改善のために増税策を採った。このため一時的にはさらに失業率が上昇したが、やがてインフレは終息し経済も回復した。

 ただ、シティ・オブ・ロンドン(ロンドンの金融街の名称)は国際金融センターとして息を吹き返したが、伝統的な産業であった自動車業界は崩壊した。多数のワーキング・プアーが生まれ、教育や医療に大きな問題が生じた。もともと社会主義的考えの強い英国では、後の政権がこれらの問題の修復に力を注がざるを得なくなった。

 米国では、徹底した規制緩和のもとで産業のリ・ストラクチャリングが進んだ。同一業種間の競争は熾烈を極めた。例えば航空業界では、名門のナショナル・フラッグ・キャリアが姿を消し、アメリカン航空など、SIS(戦略情報システム)で名をはせた国内線大手の航空会社がトップに躍り出たのも束の間、徹底した顧客サービスと低コスト経営、格安運賃を経営戦略とする新興会社に破産、あるいはその寸前にまで追い詰められた。金融分野では、銀行と証券会社の垣根が取り払われ、規制改革と市場原理主義が強化されていった。これが米国経済の活況に結び付き、その後のバブル経済と現在の金融システム破綻の一因ともなった。

 規制緩和による徹底した競争の中で、持てる力を強みに集中しなければ競争に生き残れないと、多くの企業は「選択と集中」戦略を徹底的に推進した。弱い事業は撤退・売却し、強い事業はさらなる強さを求めて、強いもの同士で合併を行った。しかし、自動車などスケール・メリットを求める企業の国際間提携や合併は、必ずしも期待どおりというわけには行かなかったようだ。

 イノベーション(革新)が企業間競争をさらに加速した。栄枯盛衰がいちだんと激しくなった。かつての名門コンピュータメーカーだったハネウエルの名前をご存じの読者は、いまどのくらいいるだろうか。かつての王者、IBMにもいまや昔日の面影はない。ITが先端技術としてもてはやされた時期には、シナジー効果を求めてメディアとITの異業種提携や合併が行われたが、自動車メーカーと同様、結果は必ずしもはかばかしいものではなかった。全く異なる成功経験を持つ2つの企業文化を、1つの新しい文化に進化させることができなかったということだろう。

 名門や“エクセレント・カンパニー”と呼ばれた企業も、その位置を長期に保つのは容易ではなく、成長産業に携わる企業や、競争力ある新興企業にポジションを明け渡す結果になった。

注3: 不況期には金利を下げ、公共投資などの財政施策を行うケインズ経済学ではなく、金融政策に重点を置く米国の経済学者、フリードマンの考え方を適用したといわれている。

【米国の反撃(2)~グローバライゼーションとその武器としてのIT~】
 さらにその後、軍拡政策でソ連を解体に追い込み、唯一の大国となった米国は、再発展を目指して、国策とも思われる形で、金融を中心にグローバライゼーションを推進した。金融とITを米国建て直しの基盤産業とし、また、グローバライゼーションのための武器として、全世界に向けた強力なプロパガンダとともにIT化を推し進めた。

 まず、軍事・研究目的に使われていたインターネットが一般に開放された。これにより、グローバライゼーションに必要な、情報やお金を世界のどこにでも簡単に移動させ、瞬時に決済できる仕組みが構築可能となった。

 これを背景に、厳しい競争下でコスト削減と顧客満足を追求するBtoC ビジネスでは、通信販売のインターネット化が進んだ。広い国土を持つ米国では、通信販売が古くから社会に浸透していたため、取引方法に対する消費者の抵抗も少なかった。通販企業は、製品名や個人情報の入力など、従来は売り手が行っていた作業を、ITの仕組みによって消費者自身のセルフサービスに変えることにより、コスト削減と業務効率化につなげた。

 豊富な製品情報や配送スピードなど、競争力の強化策はeコマースの利便性として消費者にも支持された。やがてeコマースの進展は、インターネット関連ビジネスを進展させる起爆剤となり、多数のITベンチャーが生まれる背景になった。

 しかし、いっとき花形産業として活況を呈したIT産業は、20世紀の終わりとともにそのバブルの終焉(えん)を迎え、戦略産業としての位置付けは著しく低下した。米国の大学・大学院のコンピュータサイエンス学科や電子工学科には、従来からインド人や中国人など外国人学生が多かったが、筋書きがあったかのごとく、米国内のIT関連業務はインドや中国にアウトソースされ、昨日まで花形職種であった米国内のIT現場は、昇進の途も閉ざされたブルーカラー職場に変わっていった。

【追われる先進国の“これから”を考えてみる】
 いま、世界ではBRICsをはじめとする30億の人口が、10億の先進国をいっせいに追うという前代未聞のグローバル化が進みつつある。この問題を考えるため、前編では発展水準の異なる経済圏の交錯の例として、1970~1980年代においては“追う側”と“追われる側”であった日本と米国の関係を振り返り、「低かった日本の人件費」「日本国民の高い技術向上意欲」「高効率の最新鋭設備で臨んだ日本と、米国の攻防」と、1990年代の変化について述べた。本論に入る前に、これを少しだけ復習しておく。

 米国では競争が熾烈化するなかで、経営者と労働者、資本家と経営者、消費者と企業の間の力のバランスがそれぞれ前者に傾きはじめた。1980年代、内外に対する“力”の政策や、自由競争(規制撤廃)、市場経済化を徹底的に進めたレーガン政権によって、この傾向はさらに強まり、また強者はさらに強く、弱者はますます弱くという社会の2極分化が急速に進んだ。

 自由化や軍拡、減税による消費拡大により経済は活性化したが、膨大な財政赤字と過大な消費による貿易赤字、いわゆる“双子の赤字”を生む結果となった。これに対し、基軸通貨を持つ強みを背景に、ドルが米国へ還流する仕組みを作り上げた。

 さらに、ソ連の崩壊で唯一の超大国となった1990年代、米国は“金融を中心とするグローバル化”と、“そのための武器としてのIT”の普及という、ウォール街とシリコンバレーを主役にした国の発展施策を進めた。しかし20世紀の終了とともに、栄華を誇ったIT業界は、そのバブルの崩壊で産業の位置付けを大きく後退させた。

 一方、日本は戦後の焼け跡から40年、ごく一部の製造業の輸出による勝利で「Japan As No.1」といわれて有頂天になり、やがて到来した株と不動産のバブルに踊ったが、1990年、バブル崩壊後には、生産性が低いままの国内産業や、円高対策として進められた製造業の海外移転の結果として生じた、“国内の空洞化”と不況だけが取り残された。

 中小企業は不況にあえぎ、金融機関の膨大な不良債権と信用不安が渦巻く中で、日本は長期にわたる経済低迷期に入ってゆく──明治維新から40年、「日露戦争で大国ロシアに勝った」との思い上がりから、第2次世界大戦の破局へ向かった過程がオーバーラップして思い起こされる。

【金融システム破たんへの道】
 ITバブル崩壊後の米国では、低金利政策が住宅バブルを作り上げていった。2000年以降の米国経済の伸びのおよそ半分は、住宅投資と住宅関連の消費によるものともいわれる。サブプライムローンは、この住宅バブルの最後の市場であった。

 やがて住宅バブルははじけ、サブプライムローンは破たんすべくして破たんし、これらを引き金に金融危機と不況は全世界に広がっていった。

 金融のメッカ、ウォール街では、高度な数式処理を用いる金融工学という手法が普及した。複雑な数式処理にはITは必須であった。「レバレッジ(てこ)」と呼ばれる、手持ち資金の何十倍もの金額の運用を行う仕組みや、買収相手の企業資産を抵当として買収を仕掛けるLBOなどの手法、不良債権を抱えこむリスクがなくなる「債権の証券化」の手法など、金儲けのための新しいアイデアが次々と生まれ、これらを実行してゆくための投資銀行、機関投資家、格付け会社、信用保証(保険)会社、銀行などからなる一貫した巨大な仕組みができあがった。そしてこれらの間で瞬時に決済ができるITを利用した仕組みが整備された。

 しかし、これらの手法や金融の仕組みはサブプライムローン問題が発端となって、その矛盾と無能ぶりが暴露された。そのずさんな格付け内容や保険の機能しないことが露呈した。5大証券会社の3つまでが立ち行かなくなり姿を消した。1位と2位の証券会社は公的資金の投入ができるように銀行業に鞍替えさせられた(注1)。米国金融システムは崩壊寸前まで追いつめられた。

 ヘッジファンドの大物投資家であり、哲学者でもあるジョージ・ソロス氏は、自著『ソロスは警告する』(講談社/2008年)において、こう指摘している。

 「レーガン時代から顕著になった規制なき市場原理主義、その後の金融工学などの高度化した手法、グローバル化や過去に金融危機を政策で解決してきたことによる自信とバブルの延命、それを受けて、金融機関のモラルハザードが膨らませてきた“超バブル”、すなわち“ドルを国際基軸通貨とした際限のない信用膨張”の時代が終焉を迎えようとしている」

 ちなみに、この著者は1990年代のアジア通貨危機以降、ヘッジファンドへの規制の必要性を説いてきた人でもある。

 サブプライムローンがいずれは破たんする矛盾に満ちた仕組みであることを、ウォール街の多くの関係者は早くから知っていたという。しかし彼らは「儲けるだけ儲けて、自分だけはジョーカーをつかまずに逃げ切ること」に腐心していたらしい。膨大な損失を出して退いた元シティ・グループCEOのチャック・プリンスは、「音楽が鳴っているいる間は、踊っていなければ……」と語ったという。サブプライムローンとは、こんな強欲な世界が生み出した金融商品だった。

注1: 「1民間企業を救済するため」に公的資金を使うことはできないが、「社会の種々の取引の決済機能に支障を来たさないため」なら許容される、という考え方によるもの。ただし、自己資本比率などにおいて国際的な銀行規制を受けるため、一般の証券会社のようなハイリスクな資金運用はできなくなる。

【“お金への飽くなき欲望”】
 リスクを下げるつもりの証券化は、別の金融商品への債権の再分割・分散化が繰り返される中で全容が見えなくなり、1つの不安がたちまち全体に広がって、逆にリスクを創造する結果となった。「高度」とされている金融工学理論は、金融商品の売り手側が上向き状況のときにのみ成り立つ理屈であった。逆の状況になった場合の人の行動という要素は考慮されていなかったのだろう。

 牛乳にメラミンが混入されたことを知れば、すべての乳製品や、乳製品を原料に含む加工食品全体が市場からボイコットされる。「拡散され、薄められて、量が少ないから危険性(リスク)は少ない」という理屈には人は耳を貸さないものなのだ。米国の金融システム破たんは、規制なき市場原理主義の下、“行きすぎた競争”と“お金への飽くなき欲望”、“走りすぎた才”の必然の行き着き先だったのかも知れない。

 サブプライムローンを発端とする今回の問題を、「100年に1度の大経済危機」(注2)という前FRB議長のアラン・グリーンスパン氏は、自著『波乱の時代(下)』(日本経済新聞社/2007年11月)で、次のようなことを紹介している。

 「所得が増えて幸福度が上がるのは、基礎的なニーズが満たされる時点まで。それを超えると物質的な豊かさではなく、対等と思える周囲の人の豊かさと比べてどうかということに左右される」「ハーバードの大学院生相手の調査では、自分の年収が5万ドルで同僚がその半分の場合と、年収が10万ドルで同僚が20万ドルの場合、大部分が前者を幸せと答えた」

 なお、“ウォール街のマイスター”とまで呼ばれていたグリーンスパン氏は、その後「“市場に任せておけばうまく行くと思っていた”という自分の考えは間違っていた」と議会で証言させられている。

注2: 1929年に始まった世界大恐慌を意識した言葉であろう。そのどん底の1933年には、米国では4人に1人が失業し、工業生産は半減した。欧州各国の工場生産は2~4割、日本でも約1割低下した。異なった経済圏であったソ連には影響は及ばなかったといわれている。

【不安定では困る基軸通貨のドル】
 少し時間をさかのぼって2001年9月、金融のメッカの象徴、ニューヨークのワールド・トレードセンタービルが破壊された同時多発テロが勃発した。政治的に行きづまっていたブッシュ大統領は、「テロとの戦い」の旗を勇ましく掲げてアフガニスタンに攻め入り、調子に乗り、難癖をつけてイラクにまで戦争を仕掛けた。最新のIT技術が武器や戦闘に用いられたが、テロやゲリラ戦にはあまり効果はなかったようだ。

 先のベトナム戦争同様、現地住民に被害を与える戦闘行為が住民を敵に回すこととなり、先の見えない泥沼状態に陥って国は疲弊し、また一国主義的な振る舞いは諸外国との亀裂を深める結果となった。勇ましく戦う姿が好きな米国民には、「テロやゲリラには戦いでは勝てない」というわずか30年前のベトナムの教訓は生かされなかった。

 間の悪いことに、このように国の疲弊した時期に金融危機が発生した。国力(政治力、軍事力、経済力)が弱まり米国への信用が下がれば、基軸通貨としてのドルへの信用も低下する。いままでのように借金して消費を続け、ドル紙幣を印刷して穴埋めをするといったことは難しくなる。しかし、世界の中で「消費」機能を担っている米国が消費を落とせば、「生産」機能を担ってきた日本や中国はたちまち大きな影響を受けることになる。


<ティータイム ~簡単にいえば、金融の仕組みとはこういうこと~>
 金融の仕組みは、簡単にいえばこのようになっている。例えばある預金者が100万円をA銀行に預金したとする。これによりA銀行の預金残高は100万円増えるが、1割くらいを手元に残して90万円を貸し出しに回すこととする(なぜ1割くらいかというと、銀行には多数の預金者と多数の貸出先、融資先がある。1割くらいが手許にあれば、1人の預金者が預金を全額払い戻しに来たとしても、新しい融資先があっても、1件くらい貸出し先が回収不能になっても、実際には十分に対応できるため)。

 次に、B社がC社から機械を買うために、A銀行から90万円借りるとする。すると、まず90万円がB社の取引銀行であるA銀行のBの口座に振り込まれ、さらにC社の取引銀行であるD銀行のCの口座に振り込まれる。これにより、D銀行の預金残高は90万円増える。E銀行は9万円を手許に残し、81万円を次の貸し出しに回す──こんな流れが続くと、最初の100万円は結果的に1000万円のお金の動き(すなわち経済活動)を作り出すことにつながってゆく。つまり、100万円が1000万円分の“信用”を創造し、1000万円分の“経済活動”を作り出しているわけだ。これが「金融」の基本的な仕組みだ。

 ただし、これは預金者や銀行が「預けたお金や貸したお金は戻ってくる」という銀行や貸出先に対する信用に基づいて成り立っている仕組みである。この流れの中のどこかが少しでも破たんを来たすと、「信用の創造」とは逆向きの「信用の収縮」が起こる。皆が相手を信用できなくなり、「預けたお金や貸したお金が返してもらえなくなるのではないか」と疑心暗鬼になり、銀行は貸したお金の回収や貸し渋りに走り、預金者は払い戻しを求める。市中に出回るお金は減り、経済活動は停滞し、不景気となる。

 もし、すべての預金者がいっせいに預金の引き出しや、貸し出しの回収に掛かれば、銀行には預金の1割しか現金がないため、この仕組みそのものが破たんし大混乱に陥る。こんなことが懸念されるとき、A銀行には90万円、D銀行には81万円といったように、各銀行に第三者が一時立替用としてお金を注入すれば、引き出しや回収にも対応可能となる。その結果、疑心暗鬼は解消され、全体が落ち着いてくれば、注入したお金は必要なくなる。潰れなくてもよい銀行を潰さなくて済む。もともとの「公的資金注入」とはこういうことだ。

 また、銀行の持っている債権(貸し出し)が回収できなくなったり(不良債権化)、持っている株式などの資産が目減りすると、結果的に自己資本の比率が低下することとなる。そうなると、国際的な規制(自己資本比率が8%を割ると国際業務ができなくなり、4%を割ると銀行業務ができなくなる、というもの)によって銀行の存立ができなくなる。

 こんな懸念から銀行は貸し渋りや回収に走る。この貸し渋りや無理な回収を止めさせて、つぶれなくてもよい融資先を潰さないようにするため、銀行の資本を増強する目的に公的資金の投入がされるというわけだ。特に、最近はこうしたケースが多い。

──メーカーで仕事をしてきた私には、何とも危なっかしい仮想世界のようで、なかなかピンと来ないのですが、お金の世界はこんなことで回っているようです……。


【悩み多き時代】
 先の章でも述べたように、グローバライゼーションの第1ラウンドは、多くの面で供給力が需要を上回る時代であった。東欧圏やBRICsの膨大な人口が生み出した安価な労働力が市場に加わったことで、長期にわたってコストを押し下げ、世界は成長と物価の安定を長期間、享受することができた。

 しかし、これも永久に続くものではない。所得水準が上がって消費需要が増えるに従い、新興国の安価な労働力は先細り、人件費の高騰や資源・エネルギー需要の増加がコストを押し上げ始めている。

 グローバライゼーションの第2ラウンドでは、新興国の経済成長がもたらす価格高騰という底流(インフレ基調)の上で、世界同時不況とそれがもたらす価格低下を受けて、市場経済は複雑な様相を呈することになった。新興国の景気が回復期に入れば、また、もしどこかで戦争でも勃発すればインフレに要注意だ。最悪のパターンは、不況でインフレが進むスタグフレーションである。

 景気回復には、世界各国で思い切った対策の早急な実行が必須だ。対策が遅れれば問題は指数関数的に拡大し、必要な対策の規模も巨大化する。治療が放置されたり適切でなかった場合に、病原ウイルスが体内で大増殖して治療が困難になったり、治癒に長時間を要するようになる人間の病気と同じことが経済でも起こる。

 「今後、世界の消費を担えるのはどの国か」は、景気回復というテーマにおいて特に大きな問題だ。また、大いに信頼を失墜したドルに取って代われる基軸通貨も見当たらない。悩み多き時代を迎えた。

【いま、考えるべきこと(1)~不況とIT~】
 とはいえ、「これから、いつ、何が、どうなるか?」は誰にも分からない。専門家といわれる人たちとはいえ、彼らの過去の発言を振り返ってみれば、あてにならない発言も少なくないことに気が付くと思う。

 いま、あらゆる問題が、誰も経験したことのない条件下で進行している。基本的には、世の中の推移を観察し、学習しながら自分で考えるしかない。いくつかのテーマをピックアップして、少し個別に考えてみようと思う。

■世界同時不況とインフレ
 いま、日本社会の中核にいる人の多くは長年デフレの世の中にいた。不況といわれた時代も内需は駄目でも輸出で頑張れた。そのため、いま中核をなしている人たちの多くはインフレや世界同時不況といわれても、その危機の大きさがピンと来ないのが普通であろう。悲観的になるのはよくないが、1929年に始まった大恐慌では、適切な対策の実行が遅れたこともあるが、1933年には米国の生産が半減し、失業率は25%に上り、職を失った人たちが巷に溢れたという。

 当時に比べて国境のバリアが極度に低くなった今日、一国の状況はたちまち世界に波及する。適切な対策のより迅速な実行が求められるが、日本の政治の現状をみれば、大変腹立たしいことではあるが、“相当の長期にわたる、いまよりもさらに強い閉塞感”を覚悟しておく必要があるように思えてくる。

 景気の“気”は、「病は気から」の”気“と同様、気持ちに大いに左右される。少し良ければ調子に乗ってやりすぎ、下り坂では実体以上に悲観的になるのが人の性だ。必要な施策が打たれれば景気は底を打ち、やがて回復に向かう──そう考えたい。

 人は用心深くなっているから、人の感じる景気“感”は実態より少し遅れがちだが、実態が回復基調になれば、物価の高騰(インフレ)が始まる可能性が高い。世界のどこかで景気回復の兆しが感じられれば、必要なものへの投資は前倒しで行うことだ。そうすれば“回復”はより早まる。

■不況とIT投資
 IT投資と企業の業績をグラフにプロットすると、昔から内外を問わず正の相関がみられる。「ITに投資をすれば、業績が上がる」という結論を得たい人たちが過去に何度も理屈をこねてみたが、“原因”と“結果”の関係は、彼らの思惑とは逆に、「企業業績が上がれば、ITにもお金を使う」というのが経営の一般的な行動であった。

 不況になればIT投資は抑制される。今後、ユーザー企業には、いままでのような“IT戦略”などといった浮わついたものではなく、本当に経営と一体となった徹底したコストダウンが、自己防衛のために求められるはずだ。そのためのITに関する検討過程を、ぜひとも過去にやってきた「考え方や判断基準」を徹底的に見直す機会にしてほしいと思う。そうできれば苦労の元は取れそうな気がする。しかし、“知恵”まで外に丸投げしてしまった企業の苦労はかなり大きくなることだろう。

 過去20年間、金融とITは米国の進めるグローバル化の両輪であった。その2つとも、ITバブル崩壊と今回の金融破たんでコケた。米国には、成功=お金持ちという“アメリカンドリーム”、市場経済とイノベーションに対する、信仰にも近い“思い入れの文化土壌”がある。“唯我独尊”も変わらない彼らの特性の1つだ。日本は戦後、無意識のうちに、こんな米国を向いて進んできたわけである。「ものづくり大国の次は金融大国を目指せ」という人もいた。

 しかし、金融は本質的に付加価値を生む性質のものではない。価値を生むのは実体経済であって、ここに必要な資金を適切に供給するのが金融の役割である。ITは“ツールや方法”であって、それ自体が価値を生むものではない。価値を生むのは人や業務プロセスであって、これらをうまくサポートするのがITの役割だ。

 金融自らがお金儲けに走った結果、引き起こしたのが今回の破たんである。倒産した米国証券会社の日本法人で働く若い日本人社員へのインタビューでは(TV局がそのように編集したのかもしれないが)、「自分たちが将来も高収入をいかに確保できるか」を気にする発言が目立った。価値観や考え方も米国流に染まったのか、米国本社の経営トップと同様に反省の弁はなかった。

 ウォール街とシリコンバレーに共通するのは、お金儲けに手段を選ばぬ価値観だ(IT分野では、当初こそコンピュータの可能性への夢を追う人が多かったが、ある時期からお金儲けの手段と考えるような人が増えていったように思う)。振り返れば、ITに対する過大な期待や、マイナス面に対する過小評価が少なからずあったと思う。

 「新しいもの=よいもの」とするイノベーション信仰の傾向が、ほかの分野に比べてIT分野の人には強かった。これらの後始末を、これからの社会が背負わされることになるかもしれない。IT業界において、やがて成り立たなくなるビジネスモデルも出てこよう。仮想空間、ネット社会などといって、実社会と区分けするような考え方を改めてゆくべきだろう。ITに対する価値観や判断基準を、省みるべき時期だ。

【いま、考えるべきこと(2)~経済構造と環境問題~】
 経済構造の脆弱な新興国は、今回の金融危機で大きな影響を受けているが、国内には大きな潜在成長力がある。適切な施策を取れば、立ち直りは思いのほか早いかもしれない。

 1970年代の第1石油危機に対し、当時成長力があった日本はうまく対応してこれを乗り切った。物価は高騰したが、追って収入も増え、この時期に学校を卒業した人は就職に苦労したが、国民生活全体への影響は比較的短期間で済んだ。

 このような観点で、現在の新興国を“生産拠点”から“人口25億の消費市場”とみる視点に移すと、世界の見え方は、また別の様相を呈してくる。

■“25億の消費市場”として中国・インドをみてみると……
 世界は「先進国と新興国における一部富裕層に向けた、高級品などの成熟市場」と、「新興国における大衆向けの、安価な大量生産・規格品市場」に2分される。後者は潜在成長性は高いが、コストが競争力になる世界だ。

 また、新興国の成長に欠かせないインフラ整備において、重厚長大型産業への需要が増大するだろう。こうした状況を受けて、すでに各社とも本業分野においてさまざまな動きがあろうが、IT分野でも、新興国を“コスト低減のためのアウトソーシング先”とみる認識を変える必要がある。特に、将来の中国やインドの大量生産、大量消費体制を支える情報システムの整備に必要となるIT人材の需給が、今後、世界でどうなるかをよく考え、観察しておく必要がある。

 いま、人的資源を含め、日本の「IT自給率」はどの程度であろうか? 食料問題の二の舞にしてはならない(関連記事参照)。消費人口が増大する時代は、資源が不足する時代だ。資源には“人や技術・技能”も含まれる。お金を払ってもほしいもの、必要なものが買えなくなる時代が間近に迫っている。人への投資を怠ってはならない。

■CO2削減は経済問題
 最後にもう1つ考えておきたいのは、地球の温暖化や、それに関連するさまざまな問題についてだ。CO2やメタンなどに温室効果があるのは事実だが、縄文時代の気温はいまより2~3度高かったらしい。温暖化がすべてCO2によるものかということになると、いろいろの意見があるようだ。 CO2削減対策にはときどきおかしな話が混じる。実効ある施策にだけ努力を傾けたい。

 省資源、省エネルギーのためには、建物でも、機械でも、ソフトウェアでも、それが耐久資材であれば、とにかく製品寿命を延ばすことだ。寿命が2倍になれば製品を作るための資源やエネルギーは半分になる。理屈でいえば、価格が2倍でも消費者の負担は変わらない。1日8時間の労働を4時間にしても、物質面では変わらぬ生活ができることになる。

 消費物資なら無駄使いを減らすことだ。コンビニやファミレスで廃棄される食材などその最たるものだろう。「たとえ売れ残りを出しても、品切れによる迷惑はかけない」──そんな“顧客満足”の名を借りた、際限のない売り上げアップの考え方も変えてゆく必要がある。

 道路を作りたい道路族が抵抗していたわけではないだろうが、ずいぶん前から話題にはなっていながら、遅々として進まなかった交通や物流のモーダルシフトなども、いまが進めるチャンスである。自動車に比べ、鉄道はエネルギーの消費量が格段に少ない。これらのような“省資源、省エネルギーのための仕組み”をうまく動かすためのIT活用には、まだまだ考える余地があるだろう。

 ただし、いま皆がこんなことをいっせいにやれば、経済はますます停滞してしまう(関連記事参照)。不況を脱し、景気が回復する過程で、この新しい方向への成長軌道を徐々にたどれるようにすることが重要だ。そのために、まずは考え方や価値観を変えておく必要がある。非常時が考え方を大きく変えられるチャンスである。

【われわれ国民がしっかりしなければ】
 さて、さまざまに考えを巡らせてきたが、こうしていまの世の中を見渡してみると、あらためて心配に思うのは、現代社会の価値観だ。

 20年前、ソ連の崩壊とともに、計画経済と一党独裁を旨とする共産主義を標榜した社会は終焉を迎えた。いま、“市場原理主義という行きすぎた自由経済”と、“お金に左右される政治”“お金が万能であるかのような社会の価値観”によって、自由と民主主義を標榜するわれわれの社会が危機に瀕しつつある──そう考えるのは心配しすぎであろうか。

 第2次大戦の終了後、多くの日本企業は事業のメドも立たない時期に、戦地から戻ってくる元社員たちをすべて復職させた。行商のような副業までして、その日その日を食いつないだ大企業もある。昭和の時代には、不幸にして人員整理に手を付けざるを得なかった企業経営者の多くは、その後で自らも責任を取って身を退いた。

 非正規雇用を制度化してしまった現在、多くの若い人たちが成長の機会を与えられず、向上意欲の持てない状態に置かれて久しい。経営者は安易に人員整理に手を付けるようになった。部下は上に習う。これでは安易な方法を求め、真剣な努力をしなくなる。

 本来なら部下の力を前向きに結集させる役割であるはずの管理者が、“リストラの理由”にしようと、部下のミスを探すような不安や不信の漂う職場では、従業員は保身に走り、力を発揮するための努力をしなくなるだろう。こんなことが続けば、組織の底力は著しく低下し、これが日本の国力に対して、長期にわたって計り知れない悪影響を与えることになるだろう。“改革とグローバル化”に名を借りた“米国化”の最悪の結末の1つだと思う。

 政治問題に触れるのは本意ではないが、日本がここまでに至った現状と将来を考えるにあたり、日米関係の実態を知る手がかりとして、在日米国大使館がWebサイトで公表していながら、日本政府も、さらにはなぜかマスコミも触れたがらない、日米間の「年度改革要望書」の内容が1つの参考になると思う。身近な分野の問題において、表面的な表現の裏に隠されている“具体的な内容”を想像してみてほしい。この十数年、日本がやってきたことを振り返ってみてほしい。われわれ国民が本当にしっかりしないといけない。

【本当に“豊か”な社会に向けて】
 前回、冒頭で述べた、北京オリンピックの入賞者インタビューでは、多くの日本人選手が、支えてくれた人々への感謝の言葉を述べ、「“子供たちに希望を与えたい”との気持ちで頑張った」と語っていた。まず自分の将来を考えるのが普通であろう20歳代の若者に、子供たちの将来を心配させている、この世の中をどう考えたらよいのだろう。また、生活苦に耐えて、福祉の現場で献身的な努力をする多くの若い人たちがいる。一条の光を見る思いがするが、われわれ大人の世代は何をしてきたのだろうか。

 過去数十年、個人主義、個性尊重などと“個”をもてはやす風潮があった。しかし「自分のため」だけに行動するというのは、いかにもむなしい。「ほかの人の役に立っている」ということの方が、より大きなモチベーションになることが、認識できる社会になってほしい。

 かつて毛沢東思想しかなかった中国で、オリンピックのアトラクションに「孔子」の名前が出てきた。「有徳」の国づくりを目指そうという兆しなら大歓迎である。


≪筆者プロフィール≫
公江 義隆(こうえ よしたか)
情報システムコンサルタント(日本情報システム・ユーザー協会:JUAS)、情報処理技術者(特種)
元武田薬品情報システム部長、1999年12月定年退職後、ITSSP事業(経済産業省)、沖縄型産業振興プロジェクト(内閣府沖縄総合事務局経済産業部)、コンサルティング活動などを通じて中小企業のIT課題にかかわる。

「@IT情報マネジメント:何かがおかしいIT化の進め方」とは…
http://www.atmarkit.co.jp/im/cits/serial/smb/index.html
一般企業の情報システム部門に所属してきた著者が、過去の体験やコンサルティング実績を基に、情報化推進時に突き当たる疑問点、困難な点について考える。

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